2013年10月25日 池袋で新旧役員が会食を・・・
K&Hを語る上で秋元紀一氏の存在は大きい。 彼がいなければK&Hの今はなかったと言っても過言ではない。
今回我が社の社長交代にあたり、前社長中山、それに代わる後任の上山、そして秋元氏が集い会食の席を設けた。
はじめに、上山が切り出した。 「秋元さんと中山さんの出会いのきっかけはなんですか?」
秋元氏はこう語り始めた。
中山は東映撮影所のスタントとバイクや車の手配のアルバイトをしていた。
梅宮辰夫と大原麗子主演の映画のためにハーレーが必要だった中山は秋元氏にハーレーを貸してもらえないかと頼んだ。
もちろん秋元氏とは面識はなく、ハーレーが店の前に置いてあることを知って、飛び込みで頼んだそうだ。
これが二人の出会いのきっかけとなった。
中山23才。 秋元氏30才の頃。
当時、中山はアルバイトをしていたが、職に就いていないのを父親は怒り、運送業の仕事に就くよう再三言われ続けていた。
中山がそれに反発していた時、彼と出会ったのだ。
秋元氏は父親の代からの住宅設備を手掛ける店で働いていた。
本当は別の職業をやりたいと思っていたが、それが出来ない状態にいたようだ。今でもそれが悔やまれると語る。
二人共バイクのレースをやっていたので、転んではFRPの修理が必要だったのだ。
そこに目をつけた秋元氏はFRPを使って修理をすれば仕事になると直感した。
風呂桶を扱っていた彼は風呂桶で使われているFRPを練馬区谷原のガスタンクの近くにある風呂桶製造メーカーで分けてもらうことを思いついた。
ただ、当時FRPでバイクや4輪のパーツを作っている所はなく、製造方法を教えてくれる人は誰もいなかった。
唯一、淡路島にあるパシフィックという会社がカワサキワークスの仕事をしていることを突き止めた。
教えを請うため二人は淡路島まで出かけて行った。
しかし、残念なことにその時既にオーナーである吉原さんは他界してしまった後だったため、FRPについての話を聞くことは出来なかった。
表工芸というメーカーはホンダのジュノーのボディーを作っていたが、当時はFRPの性能に対する知識が不足していて、強度を出すために樹脂分を多く張り込んでいたため、FRP製品は厚みがあり重い製品ばかりで、人気がなかったようだ。
その後、何とか手さぐりでワーゲンやポルシェのバンパーなどを作り始めた。
当時の製品は製造方法も良く分からずいつまでもベタベタしていたが、その修正方法もわからなかった。
「今だから言えるけど、そのベタベタのまま納品してしちゃったよね。」と2人は苦笑する。
ここで少し秋元氏とオートバイとの歴史をご紹介したいと思う。
秋元氏は14才で第一種原動機付き自転車に乗り始めた。
16才で軽自動車 17才で自動二輪 18才でサイドカーの免許を取った。
(今では無いが、サイドカーの免許があったようだ。)
当時の試験場は陸王のサイドカーで教習を行っていたらしい。
途中坂道発進をしなければならなかったが、エンジンが思うようにふけず、隣で教官に「もっとふかして!もっとふかして!」と怒鳴られたという。
そんな秋元氏であるが、富士のサイドカーレースではなんと日本チャンピオンになったそうだ。
パッセンジャーは彼の弟さん。
その後ソロに乗るようになった彼は、三恵技研工業でマフラーを造ってもらった。
当時はマフラーもメガホンマフラーで良く、もちろん消音器なども無しでOK。
ソロのレースでは浅間を走ったが、ほとんど高橋国光さんなど先輩ライダーが走っているのを横眼で見るだけだった。
今では考えられないこんなエピソードも暴露してくれた。
「当時はライト無し、消音器無しのメガホンマフラーのレーサーで、自走で国道をレース場まで走るライダーもいたんだよ!」
「僕たち後輩ライダーは先輩の前後を囲むように、ライト替わりもしながら走ったんだ。」
「大らかな時代だったよ。 ある意味いい時代だったなぁ!」
秋元氏と言えば長年モーターサイクルショーの実行委員としても活躍していた。
サイクルショーは2回目か3回目に個人で出店したのがきっかけという。
3・4回目のサイクルショーの時、大久保力さんに頼まれ、サイクルショーの運営に携わっていった。
島英彦さん、山田純さんなども手伝っていたようだ。
余談だが、第4回東京モーターサイクルショーの時、「紀一と博FRP研究所」として出品した車両がカスタムモデルの部第3位になった。
その盾は今でも練馬の事務所に大切に?(埃に塗れて)飾ってある。
秋元氏はその後サイクルショーの運営から撤退することになるが、辞める前にサイクルショー実行委員を作り、しっかりとした組織で運営するように助言したという。
さて、話を戻そう。
秋元氏はFRPを始めた頃の事をこう振り返った。
「時々中山君の作業場に行くと、うまくできないといって中山君が寝転んでいるんだよ。自分の弟だったら張り倒していたかもしれない!」
それでも、中山は「まったくうちの息子はろくでもないことをしていて・・・
と親父に馬鹿にされたことに怒り、「今におやじを見返してやる!」という一心で何とか気持ちを奮起させていた。
そして、秋元氏は中山が父親の反対を押し切りFRPの仕事を始めるきっかけを作ってしまった張本人であることに責任を感じ、「僕が必ず面倒をみますから」と啖呵を切ってしまった手前、後には引けない状態だった。
そんなことも有り、何とか二人で乗り越えてきたという。
とにかく製造方法も手さぐり、ましてポリエステル樹脂などを手に入れるのも大変な時代。
F1レーサーだった鈴木亜久里さんのお父さんジャッキーさん(相称)の紹介で沼津のヤマハまで樹脂を分けてもらいに行ったこともあったという。
その後、綿引自動車で塗装をしていた中沖満さん(後にバイク紙でコラムなどを連載していた方)などに頼まれワンオフでカスタムバイク(CB500)を作るまでにはかなりの道のりがあったようだ。
一人のオーナーさんにワンオフでカフェレーサーを作る時代がやっと来た。
それでも、当時はFRPはおろか、きちんとしたシートのレザーを張る人も皆無。
「今、当時の製品を見ると恥ずかしいよ。」と中山は言う。
その頃があって今があるのだから、その時代がK&Hの確かな歴史であることは間違えのない事実である。
その後、一つの型から何個もの製品を作る量産体制に移っていった。
「あの頃一番売ったのはCB400Fのシングルシート。一日に何個も作ったよな。」中山は思い返していた。
それでは、中山と上山との出会いについてご紹介しよう。
上山との出会いは上山が19才の頃。
当時SRに乗っていた上山はSRのカスタムに夢中だった。
家が練馬の店(当時は練馬に店と作業場があった)に近いこともあり、しばしば通って来た。
そのうち、中山からこう声を掛けられたそうだ。
「モーターサイクルショーとうちの息子の運動会が重なっちゃうんだ。モーターサイクルショーを手伝ってくれないか?」 「ただ、立っているだけでいいからさ!」
そんな事がきっかけで、上山はK&Hでアルバイトを始めた。
当時専門学校生だったこともあり、本業としてK&Hで働くことは考えていなかったようだ。
専門学校を卒業後、不動産関係に就職をしていたが、やはり好きなオートバイに携わりたいという気持ちを抑えることはできなかったようだ。
ある日「ここで使ってください」とやって来た。
「うちは給料安いよ それでもいいの?」 「いいです!」
そんな会話であっけなく就職が決まった。
この二人のコンビは中山と秋元氏の関係にも似ている気がする。
その後、上山達は≪eggs≫というブランドを作った。
復帰した中山から「お前たちの好きな物を作れ!」そう言われたからだ。
「自分達はまだまだ卵」そんな意味がこのブランド名には込められている。
今、立派に成長した親鳥になるとはその時は全く考えてもいなかったのだが・・・
会食の最後に秋元氏はこう語った
「我々が始めた頃は物のない時代。その頃は今とは違うが、いい物を作ろうという気持ちだけはどうか忘れないで欲しい。」
そして
「良い物を作る事をベースに、されにそれに付加価値を付ける事がこれからの物づくりにとって大切だと思う」と。
秋元氏、中山が持ち続けた「こだわりを持った、良い物を作りたい」という精神は間違えなく上山達に引き継がれている。
中山が “自分の時代を終わらせよう“ “終わらせる事に悔いがない” と思った理由はそこにあるような気がする。
上山が最後に言った。
「確信は無いけど、K&Hを良くする自信はあります。」と
これから、新しいK&Hがスタートして行く。
中山の時代を超えるK&Hがそこには必ず有るような気がした。
中山は会長として、秋元氏は会見監査としてこれからもK&Hを見守ってもらう。
今まで築いてきたブランド名に “あぐらをかく” ことではなく、常に真摯に初心を忘れずまい進していってほしい。
秋元氏と中山はそう思っている。
今更ながらに人と人との繋がりが本当の財産だと実感した会食だった。
これまでの間K&Hに携わり様々な場面で支えて頂いた多くの皆様に、感謝を申し上げます。
これからの新生K&Hも、今まで以上によろしくお願いします。